作者简介
北畠 親房(きたばたけ ちかふさ)は鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。著書の『神皇正統記』で名高い。正応6年(1293年)6月24日、生後わずか半年で叙爵。徳治2年(1307年)11月、左少弁に在任の際、清華家の北畠家よりも家格の低い名家出身の冷泉頼隆が弁官となったことに憤激して職を辞した。自らの家格に対する強烈な自負がうかがわれる。延慶元年(1308年)11月、非参議従三位として公卿に昇進。延慶3年(1310年)12月、参議に任じられ、翌応長元年(1311年)7月に左衛門督に任じ検非違使別当を兼ねた。同年12月、権中納言に昇進する。
後醍醐天皇が即位すると、吉田定房・万里小路宣房とならんで「後の三房」と称される篤い信任を得た。後醍醐天皇の皇子世良親王の乳人をゆだねられたほか、元応2年(1320年)10月には淳和院別当に補せられ、元亨3年(1323年)1月、権大納言に昇進し、同年5月には奨学院別当、正中2年(1325年)1月には内教坊別当を兼ねて、父祖を超えて源氏長者となった。元徳2年(1330年)、世良親王の急死を嘆いて38歳の若さで出家し、いったん政界を引退した。法名は宗玄。正中の変にはじまる後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画には加担してはいなかったようである。
鎌倉幕府が倒れ後醍醐天皇による建武の新政が開始されると、再び政界に復帰したが、後醍醐天皇の専制政治には批判的で、必ずしも表舞台に立ったとは言えない。奥州駐屯を命じられた長男の顕家に随行し、義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城へ赴く。建武2年(1335年)、北条氏の残党による中先代の乱が起き、討伐に向かった足利尊氏がそのまま建武政権から離反すると、尊氏を討伐するために京へ戻り、尊氏に京都を占領されると、京都を逃れた後醍醐天皇が吉野で開いた南朝に従い、北朝に対抗する。
延元3年/暦応元年(1338年)に顕家が戦死した後、親房は伊勢国において度会家行の協力を得て南朝勢力の拡大を図る。ここで親房は家行の神国思想に深く影響を受けることになった。ただし、家行の唱えた伊勢神道自体に対しては批判的であったといわれている。
関東地方に南朝勢力を拡大するために結城宗広とともに、義良親王・宗良親王を奉じて伊勢国大湊(三重県伊勢市)から海路東国へ渡ろうとするが、暴風にあい両親王とは離散し単独で常陸国へ上陸。はじめは神宮寺城(現在の茨城県稲敷市)の小田治久を頼り、佐竹氏に攻められ落城すると阿波崎城、さらに小田氏の本拠である小田城(現在の茨城県つくば市)へと移る。陸奥国白河の結城親朝はじめ関東各地の反幕勢力の結集を呼びかけた。
この時期に『神皇正統記』・『職源鈔』を執筆したとされている。
興国元年/暦応3年(1340年)、北朝方が高師冬を関東統治のために派遣すると、小田氏に見限られた親房は関宗祐の関城(現在の茨城県筑西市)に入り、大宝城(現在の茨城県下妻市)の下妻氏、伊佐城(筑西市)の伊佐氏など常陸西部の南朝勢力とともに対抗する。親房の常陸での活動は5年に渡った。しかし、南朝方に従った近衛経忠(南朝の関白左大臣)が藤氏長者の立場で独自に東国の藤原氏系武士団の統率体制を組もうとしたこともあって、親房の構想は敵と身内の両方から突き崩される結果となり、興国4年/康永2年(1343年)に両城が陥落すると吉野へ帰還している。これ以降、すでに死去していた後醍醐天皇に代わり、まだ若い後村上天皇を擁して南朝の中心人物となる。主に摂関や天皇の外戚・生母などに与えられる准三宮の待遇が、一介の「大納言入道」に過ぎない親房に与えられたことは、南朝におけるその権勢を物語る。
正平3年/貞和4年(1348年)に四條畷の戦いで楠木正行ら南朝方が高師直に敗れると、吉野から賀名生に落ち延びる。観応の擾乱に際して、足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、これに乗じて一時は京都と鎌倉の奪回にも成功した。正平9年/文和3年(1354年)4月に賀名生で死去。親房の死後は南朝には指導的人物がいなくなり、南朝は北朝との和睦に傾いていく。
阿部野神社(大阪市阿倍野区)や霊山神社(福島県伊達市)に顕家と共に祀られている。墓は終焉の地賀名生にある。また、室生寺にも親房のものと伝えられる墓がある。
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